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はなほじズ

自由人のブログ。

桜が咲く季節になってしまった

暖かくて心地よい良い春に、生命のいぶき、新しい社会の歩みを感じる。
桜が咲いてしまえば、舞い散るまでのカウントダウンが始まる。日本の時計の針が進む。皆、気持ちがいい。希望を持っていい時期。夢を見ていい時期。いくらでも笑ってはしゃいで転んでまた笑って、素晴らしい命たち。彼らを見送りながら白い花吹雪が舞い上がり、桜の春は終わる。
その桜を見送る私にはまだ春が続いている。毎年だしぬかれてしまう。
いつの間にか夏が始まって、秋の空になって、つめたい冬の風が吹いて、どうせまた春が来る。

私の8月の誕生日よりも春の訪れの方が、歳をとったな、と感じられる。
大人になってきてしまった。
好きなことをして生きていきたい。
人を幸せにすることで幸せになりたい。犬のように。
死なないように頑張るし、死なないように頑張らない。
子供っぽいねと言われたいし、言われたくない。
優しくなりたい。桜の花びらの手ざわりのように。

ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ





こんなことを書いていたら桜が散ってきてしまいました。ちゃんちゃん。

2/24、25の日記

家と家の隙間に夕日が差し込むとき、言葉にできないさみしさと疲労とぬくもりを感じる。心が不安定なときの方が景色が綺麗だと思ってしまう。自分が優しくなりたいと思うほど、何も言えなくなって、結局冷たい人だと思われてしまう。気がしている。コンプレックスを逆手にとって仕事にしている人はきっとその呪縛で生かされているだけなんだと思う。すみません。
ベースが好きだけど、アコギもエレキもいい音だから好きだなと思う。有名にならずに作家として稼ぎたいのが本音だったりする。夢の中の私はたいてい過剰に素直になっていて、ちょっと可哀想な生かせ方をさせているのかな、と思うことがある。欲は満たして生きているはずなのに。お金があった方が豊かな生活は送れるけれど、きっと失われるものがある。必要な時だけ稼いで生きてみたい。
事実って残酷だ。愛だけがそれを受け止めると思っている。私は動揺が外に出ない。それはどうでもいい。素朴で華やかなものがつくりたいし、手に入れたい。付加価値にお金をかけたい。
目に見えているものは全てただの光の波だ。そんなものに揺さぶられてたまるか。色も形も文字も、ただ見えているだけだ。言葉にできなくても、思うことが大切だと思う。気づけなかったことに気が付けたとき、大きな財産を手に入れられた気がする。そんな財産をどんどん膨らませて、心だけでも立派になりたい。

駄文 私の主観

たとえ明日の朝、今まででいちばん美しい日が昇ってきたとしても、私は私にしかなれない。

たとえ私が人生でいちばん怒っていても、その日の空は気持ちの良いほどに晴天かもしれない。風もなく、雲もなく、暖かくて、心地よいような。
その空の下で、素敵な仲間と幸せな時間を過ごしている人もいるはずだ。


だから私は大雨の日の方が好きだ。
何にも収穫の無いつまらない日でも、心が荒んだ日でも、楽しかった日でも、人生とは一切関係なく雨が降る。変わらず雨音が聞こえることで静寂が生まれる気がする。強く地面に叩きつけられた雨粒の音は、どこか安心感を抱かせる。
自分の人生とは関係なく天候が独立して存在していて、それが私を肯定してくれるような、無視してくれているような感じがする。



対比構造が私を惑わす。
私は、私たちは、人は、容姿が優れていて、何事にも能力を発揮させる力を持ち、人望が厚く、満足した生活を送らなくてはいけない。
そう決まっているような気がしてしまう。


晴れた日は幸せなことがきっとあって、きっと清々しい一日となる。雨が降れば気分は落ち込むものである──ならば私は、不幸な日には晴れていた方が、皮肉さを帯びていて美しい気がする。

小説の演出効果は単純で好きじゃない。
登場人物にとって都合の悪い事態になっていった途端に雨が降り始める。そんなことあってたまるか。



私は私以外に振り回されずに生きていきたいのに、そんなこと当然できるはずもなく、幼い頃から染み付いてきた観念が邪魔をすることがある。



そして、そんな風に自分以外から何かを被ることもあれば、自分自身で傷ついていることがある。

私(現在高3)はよく、小6、中1、高1、高2の頃の自身の言動を思い返す。思い返すたびに反省をしている。
わかっていても何故か失言してしまったり、自覚が無いままに人の大切なものを貶しかけていたり、卑屈すぎて迷惑をかけてしまったり。
そういう自分の失敗をいつまで経っても忘れられずにいる。
よく、“やられた側はやった側よりも覚えている”と言われている(気がする)。つまりは、加害者が抱く罪悪感の程度よりも、被害者が根に持つ程度の方が甚だしいということである。

私の過去の失敗を、相手が覚えている可能性は高い。
それに怯えているせいで、いつまでも忘れられない。

実を言えば、学校での出来事は数時間後になってすぐに後悔がはじまる。そして3、4日は引きずる。だから学校は疲れる。

成績の良い人、優しくて強い人、友達が沢山いる人、頑張れる人、楽しそうな人、見た目に気を遣える人、あなたたちは、素晴らしい。
だから私は私がつまらないし、醜いし、改善すべきところが多いなと思う。

これは学校に限らず、駅前の道や、商業施設などでも感じる、足のない劣等感である。地に足がついていないのだ。
比べなければ私なんて普通の人間なのに、あほらしい。

隣の芝は青く見えるし、誰かにとっての空も青いし、私の空も嘘みたいに青いし、本当に空は青い。

私は私の朝焼けを見なければいけない。
私が私にとって美しい人生でなければいけない。
私がいつか本当に美しいと言えるような日が昇ってくる日のために、私は今日も布団に入る。眠る。

みんなもはやく寝てね。おやすみ〜。